自称アート・リポーターこと、よろコンです。
さて、今まで見てきた美術作品の中から、好きな作品をレポートしてコレクトするブログシリーズ。また、お付き合いただけますと幸いです。
それでは、本日の作品はこちら。
岡本太郎
「太陽の塔」(1970)
(写真はすべて2019年12月14日撮影)
大阪・万博記念公園。そのあまりにも有名な異形の塔は他を圧倒する存在感でそこに立っています。晴れの日も、雨の日も、雲の多い日も。いつでも太陽が陽を照らし続けるかのように。
上の写真は大阪モノレール・万博記念公園を降りたところから見た太陽の塔です。
1970年3月15日から9月13日までの間、大阪で開催された日本万国博覧会には77か国が参加、6400万人を超える人が訪れました。
その万博のシンボルゾーンにテーマ館として造られたのが太陽の塔。
デザインは言わずと知れた岡本太郎(1911-1996)
日本を代表する前衛芸術家の一人。
「何だこれは」
と目を見開き、
「芸術は爆発だ!」
と叫ぶ姿は、アラフィフ世代の方なら子どもの頃に一度はマネをしたのではないでしょうか?当時は「ちょっとアブナい人・・・?」なんて思っていたかなぁ・・・
そんな岡本太郎は1911年2月26日、芸術一家に生まれ、慶應義塾幼稚舎・普通部を経て、1929年東京美術学校(現・東京藝術大)に。その年12月、太郎18歳のとき、父・一平のロンドン取材旅行に同行し、家族で神戸を出港。自身は翌1月フランス・パリへ。その後、10年間過ごしますが、戦争の影響により1940年29歳のとき日本に戻ります。二科賞を受賞するなどの活躍もありますが、1942年31歳の時には中国戦線に出征。終戦後、日本に戻ってからは日本の前衛芸術の先頭を切る存在として多彩な活動を続けていきます。
フランスにいるときは、かのシュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンの勧めで国際シュルレアリスム展に出品。戦地から戻った後、のちのノーベル文学賞・川端康成邸に居候したりと、やはりとてもスゴい方なのです。
さて、その太郎ですが1967年7月7日57歳のとき、大阪万博の日本テーマ館展示プロデューサーに就任します。これには当時・通産官僚であった堺屋太一の関わりが。
日本テーマ館の建設にあたっては基幹施設プロデューサーであった丹下健三の「未来都市を思わせるように会場の中心区域を大屋根で覆う」という大胆な計画と「会場の真ん中に生命をモチーフにした塔を作る」という岡本太郎のこれまた常識を超越した案が対立したとか。最後は屋根の真ん中に穴をあけて塔を建てるという案に落ち着いたようです。
その岡本太郎の太陽の塔ですが、高さ70m、基底部(根元)の直径20m、片腕の長さ25m。現代のわれわれから見ても巨大なモニュメントです。
千里の空にそびえ立ちます。
この太陽の塔には4つの顔があります。
まずは塔のいちばん高いところに輝く「黄金の顔」は「未来」の象徴。
次に胴体の中央部、正面を見据える白い「太陽の顔」は「現在」の象徴。
そして背後に描かれた「黒い太陽」は「過去」の象徴。
最後、四つ目の顔は塔の中の「地底の太陽」
万博終了後、その行方は分からなくなり50年経った今も不明。
しかしながら、太陽の塔の修復工事とともに四つ目の顔は復元されました。そして長らく非公開であった塔の内側の展示「生命の樹」も。
現在では、オフィシャルサイトから予約することで塔の内部を見に行くことができます。ということで、2019年12月14日に訪問してきました。
それでは、いざ、塔の中へ。
入口から通路を抜けていきます。
通路の途中には岡本太郎の残したデッサンの展示が。
そして、現れるのは4つ目の顔「地底の太陽」
プロジェクションマッピングで赤く燃えたり、青くなったり、黄色になったりと様々な表情を見せます。太陽の両脇には様々な民族の人形やお面の展示が。
それでは、太陽の塔「生命の樹」へ
「生命の樹」の根元には何やら海のイソギンチャクとも食虫植物とも何かの菌ともとれるような原始的な生物が。樹を這うのは三葉虫でしょうか。
見上げると高さ41mの樹の幹。クラゲや、魚や、イカなどの海の生物。
上の方に恐竜がいるのが分かりますか?ひれがある首の長い恐竜はプレシオサウルスでしょうか?
写真撮影ができるのはこの一階のみ。あとはガイドの方の説明を聞きながら5階まで階段を上っていきます。写真の左上に見える白い通路のようなものが階段です。これは当時はエスカレーターだったとか。中が空洞な建造物の壁にエスカレーターを設置したので、のちの耐震基準に合わず、公開ができなかったよう。階段にすることで重量を軽くして無理な負荷がかからないようにしたことで基準を満たせるようになったようです。
そして、この階段を上にのぼっていくと、鳥や動物、最後は人類へと続いていきます。
太陽の中で脈々と続く生命の歴史。
塔の上の方にはゴリラ(もちろん模型)がいるのですが、一部のゴリラは顔の表面が劣化し、中の機械がむき出しになっています。それをあえて修復しないことで、当時の姿をそのままに残しているとのこと。機械仕掛けで動くリアルな動物たちが1970年の展示物として造られたと考えると、その創造性、先進性に正直、驚かされます。
塔の中は階段で5階までゆっくり上るツアーとエレベータで1階、3階、5階に止まり鑑賞するツアーがあります。ガイドの方の話を聞きながらゆっくり上りますので、階段でも体力的には問題はないと思いますが、足の具合の悪い方はエレベータのツアーでも十分に鑑賞できると思います。
塔から出て再び外へ。
帰り道、見上げる塔はこれから夕陽に向かって羽ばたこうとしているかのようでした。
太陽の塔ができた1970年は私の生まれた年(万博は終わっましたが)
同じ年のこの塔は、私が30代前半のころ忘れられない存在となりました。
当時、近隣に出張で来ていた私。仕事は問題多発、スケジュール遅延も。そんな状況の中では、帰りが深夜に及ぶこともしばしば。プレッシャーと焦りを感じ、職場に通っていました。その途中、かならず私の目に飛び込んできたのが、この大きな塔でした。
最初の頃、その異形の姿は深夜に見ると不気味だし、遠い存在に思えていました。でも、毎日、この塔を見ているうちに、だんだんと塔に応援されているような気になってくるのです。朝は「行ってこい」夜は「お疲れ」と声をかけてくれてるような・・・
この塔が持つ力なんだろうなぁとしみじみ感じました。毎日、塔に会うのが楽しみになってきました。その仕事は三週間続き、ようやく出張も終わりに。最後、家に帰るとき、小さな太陽の塔を買いました。それは、20年近く経った今でも私の部屋にいます。少し仕事に疲れたとき、いつでも勇気づけてくれるような・・・
思い出にひたりながら、最後にもう一度太陽の塔を見ると「あっ」
「虹が」
塔に腕の下に虹が。塔が腕を振り上げて虹を作ったかのよう。
やっぱり、この塔、何かの力を持っているようです。
また必ずこの塔に会いきます。その日まで、ごきげんよう。
以下、関連リンクです。
太陽の塔のオフィシャルサイト
taiyounotou-expo70.jp予約できます。
万博記念公園のサイト。当時の万博の様子もうかがえます。
青山の岡本太郎記念館と川崎の美術館のサイトも
岡本太郎の年表もあります。
2025年の大阪万博。今度はどんな万博になるのでしょう。
ということで、ここまで、お読みいただき、ありがとうございました。
いかがでしたか?次の作品もお付き合いください。
以上です。ではでは。
(万博記念公園駅から見た太陽。
天使のはしご?とまではいかないですかね。でもいい空でした)