展覧会に行きたい!よろコンです。
本ブログでは見て来た展覧会を個人的にレポートします。
今回は、2023年1月22日(日)に見て来た
佐伯祐三 自画像としての風景 展@東京ステーションギャラリー
です。
30年の短い生涯を閃光のように駆け抜けた佐伯祐三。その作品の変遷を通じ、佐伯祐三の生涯をたどる展覧会。とにかく素晴らしかった。
今回も最後までお読みいただけますと幸いです。
【目次】
※ 以下の記述は展覧会の解説、図録、パンフ、その他WEB上の資料等を参照の上、記述しております。また、作品は図録を撮影した写真を掲載しています。
1. 展覧会情報
(1) 開催概要
・期間:2023/1/21(土) - 4/2(日)
※ 2/26まで前期、2/28から後期で一部作品の入れ替えあり
・時間:10:00~18:00(入館は閉館30分前まで)
・休館日:月曜日(3/27は開館)
・チケット:一般 1400円、高校・大学生 1200円、中学生以下無料
(日時指定あり、当日券は美術館1F入口)
・作品数:100点以上
・写真撮影:NG
・美術館:東京ステーションギャラリー(東京駅・丸の内北口)
(2) 各種リンク等
・展覧会サイト
・美術館サイト
・パンフレット
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/pdf/202211_saeki.pdf
・作品一覧
https://www.ejrcf.or.jp/gallery/pdf/list_202301_saeki.pdf
(ポスター)
(「立てる自画像」1924年)
(「コルドヌリ(靴屋)」1925年)
美術館入口(郵便配達夫」1928年)
それでは中に入りましょう。
2. 鑑賞
(1) 訪問日・混雑状況
訪問日:2023/1/22(日) 16:00頃訪問
鑑賞時間:約90分
混雑状況:ゆっくり快適に見られました。
(2) 構成
・プロローグ 自画像(Prologue:SELF-PORTRAITS)
・1-1 大阪と東京:画家になるまで(BEFORE BECOMING AN ARTIST)
・1-2 大阪と東京:<柱>と坂の日本-下落合と滞船(PILLARS AND HILLS-SHIMO-OCHIAI AND MOORED SHIPS, 1926-1927)
・◎親しい人々の肖像(INTIMATES)
・◎静物(STILL LIFE)
・2-1 パリ:自己の作風を模索して(SEEKING HIS OWN STYLE, 1924)
・2-2 パリ:壁のパリ(PARIS WALLS, 1925)
・2-3 パリ:線のパリ(PARIS LINES, 1927)
・3 ヴェリエ=シュル=モラン(VILLIERS-SUR-MORIN)
・エピローグ 人物と扉(Epilogue:PEOPLE AND DOORS)
(3) 展覧会風景
パリの街、特にポスターや広告の文字があふれる街の風景が印象的な佐伯祐三。
その生涯は・・・
・1898(明治31)年:大阪府の浄土真宗・房崎山光徳寺の次男として生まれる
・1917(大正6)年:19歳、学校を卒業とともに上京、画学校では藤島武二が指導
・1918(大正7)年:20歳、東京美術学校西洋画科予備科に入学
・1920(大正9)年:22歳、父の死、死の直前に許しを得た米子と結婚、東京・下落合に
・1922(大正11)年:24歳、長女・彌智子誕生
・1923(大正12)年:25歳、家族とともにフランスに向けて神戸を出港
・1924(大正13)年:26歳、里見勝蔵に同行しヴラマンクに面会、大きな転機に
・1926(大正15・昭和元)年:28歳、一時日本に帰国
・1927(昭和2)年:29歳、再びフランスへ
・1928年(昭和3)年:30歳、病床に伏し、その生涯を終える
それでは作品を(以下、いずれも図録からです)
(リュ・デュ・シャトーのアトリエにて。右から佐伯祐三、兄・祐正、娘・彌智子、妻・米子)
(佐伯祐三の書簡。文字がかなり個性的)
さて、まずは「プロローグ 自画像」から
「自画像」1923年
東京美術学校の卒業制作。若く決意に満ちた佐伯
次は「1-2 大阪と東京:<柱>と坂の日本-下落合と滞船」から
「下落合風景」1926年
「滞船」1926年
ともに日本に一時帰国の際に描かれた作品。
高く屹立した電子柱のまっすぐな線、帆船の帆柱から伸びる無数のロープ
再び訪れるフランスで描かれた作品とも共通する点が
「◎親しい人々の肖像」から
「米子像」1927年
銀座の裕福な貿易商の娘だった妻・米子は東京美術学校時代の佐伯と恋愛の末、結婚。一歳年上の彼女を佐伯は「ヴィーナスや」と言っていたとか。絵にもその気持ちがあふれているような・・・
「蟹」1926年頃
帰国中に大阪の姉の嫁ぎ先で描いたとか。制作時間はわずか30分。素早い筆さばきでその形態、色、質感を見事に描き出しています。「鯖」の絵もありましたが、こちらも素晴らしかった(これは会場で)
「2-1 パリ:自己の作風を模索して」から
「パリ遠望」1924年
パリに渡ったころの佐伯の作品。ドラン、ヴラマンク、ゴーガン、ルソーと影響を受ける中、特に影響を受けたのはセザンヌ。その影響が見える絵です
そして、里見勝蔵に連れられフォーヴの巨匠・ヴラマンクに会いに行きます。
そこで佐伯はヴラマンクからこう言われます。
「このアカデミックが!」
この怒声が佐伯の作品を一変させます。
(ポスターの「立てる自画像」はヴラマンクの一言があってからの作品。顔が描けなくなるほどのショックだったよう)
「パリ雪景」1925年頃
ヴラマンクの教えは、光で変化する表面的な色彩ではなく、物質の持つ固有色の表現であったとのこと。
1924年秋に再びヴラマンクのところに訪れた佐伯。ヴラマンクから「物質感はナマクラだが、大変優れた色彩家」と褒められたとか。この絵にもその試行錯誤が滲んでいるような
「2-2 パリ:壁のパリ」からは
「パリ風景」1925年頃
この頃にはユトリロの影響も受け、パリの街並みを描写
そして、佐伯はヴラマンクを乗り越え、ユトリロをも乗り越えていきます。
この後、佐伯は一時、日本に
そして、またフランスへ
「2-3 パリ:線のパリ」から
「レストラン(オテル=デ=マルシュ)」1927年
よく知られた佐伯の作品はこの線の時代ではないでしょうか。
絵の中に書き込まれたおびただしい文字。まるで看板やポスターがコラージュされているかのよう。
そして、ふと思いました。先ほどの佐伯の書簡の文字。かなり個性的。文字として書かれた線やその造形にも強いこだわりがあったのではないか。そこにも佐伯芸術を形作る要素があったのではないか。そんな気がしました。(個人的に)
「3 ヴェリエ=シュル=モラン」から
「モラン風景」1928年
パリから電車で一時間ほどの村「ヴェリエ=シュル=モラン」
なかなか満足のいくような作品は描けなかった佐伯。病で衰弱する自分を追い詰め、抗い、命を削るように制作を続けたとのこと。かつてのパリを描いた時のように繊細な線は姿を消し、力強い黒い線が現れる。
自分の芸術を追い求める中、死期が迫る佐伯はついに精神を病んでしまいます。死の前日、看護人が夜通し泣き続ける佐伯の姿を見たとか
そして佐伯はこの世を去ります。享年30歳。あまりにも早く
最後、「エピローグ 人物と扉」
「扉」1928年
パリ、モンパルナス大通りのアトリエからほど近い建物の扉
力強く、重厚感があります。ゆがんだ自由な線にどこか親しみも感じられるような
この扉の向こうに佐伯はいったい何を見ていたのでしょうか?
ということで、この他にも、いっぱい紹介したい作品はありますが、今回はこの辺で・・・
東京では18年ぶりの回顧展。100点を超える作品。展覧会で佐伯祐三を体感してみてください。
(4) ミュージアムショップ
今回は図録と絵はがきを一枚購入
図録:2800円(税込み)
絵はがきは図録の表紙の靴屋さんの入口です。
3. さいごに
佐伯の死後、ほどなくして一人娘の彌智子も6歳で父の後を追います。父と同じ結核でした。
二人の遺骨とともに帰国した米子。妻として母として、どれほどの気持ちだったのでしょう。想像もできません。
その後、米子は下落合のアトリエに戻り、洋画家として二科展、二紀展と活躍します。異国の地でその生涯を遂げた若き夫と幼き娘への思いがあったのかもしれません。
パリの街のポスター以外ではない佐伯祐三にも出会える展覧会です。是非、美術館まで
それでは、さいごに関連リンクです。
2月の展覧会情報はこちら
なお、本展は東京展が終了後、4/15~大阪に巡回します。
会場は今回展示の作品を多く有する大阪中之島美術館です。
こちらもお楽しみに。(こちらもいつか行ってみたい美術館です^^)
ということで、今回のレポートは以上です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また、次のレポートもよろしくお願いいたします。
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(やわらかい光)