よろコンです。
本ブログでは見て来た展覧会の個人的な感想を書いています。
今回は、2024年4月7日(日)と9日(火)に見て来た展覧会
池上秀畝展@中村橋・練馬区立美術館
です。
「高精細画人」
横山大観らと活躍した「朦朧体」菱田春草、と同郷で同じ年の池上秀畝。
あまり聞かない、というか今回初めて知りましたが、当時の文展では三年連続特選受賞、帝展では無鑑査、審査員を務めるなど輝かしい実績を誇ります。展覧会だけではなく、屏風絵などにも数多の名作が。
生誕150年、これまであまり知られていなかった池上秀畝とは果たしてどのような画家だったのでしょうか。
今回も最後までお読みいただけますと幸いです。
【目次】
※ 以下の記述は展覧会の解説、パンフ、図録、その他WEB上の資料等を参照の上、記述しております。また、図録の写真を掲載しています。
1. 展覧会情報
(1) 開催概要
・会場:練馬区立美術館@中村橋
・期間:開催中(2024/3/16(土)) - 2024/4/21(日) ※ あと一週間(4/14記述時点)
※ 展示替えあり(4/2(火)から一部展示替え)
・時間:10:00~18:00(入館は閉館30分前まで)
※ ナイトミュージアム:なし
・休館日:月曜日
・チケット:一般 1000円、高校・大学生および65~74歳800円、中学生以下および75歳以上 無料(リピート割で前回の半券を持参すると一般で300円引き) ※ 電子決済(PaypayやQuick Pay)など利用可能
・作品数:前後期+巡回の長野展のみの作品含め全106点(4/2~は84点)
・写真撮影:NGでした
・関連リンク:
1) 展覧会
生誕150年 池上秀畝―高精細画人― | 展覧会 | 練馬区立美術館
(展覧会チラシ)
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(作品リスト)
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2) 美術館
(黄色は練馬区立美術館、ピンクは巡回先の長野県立美術館、ごみ入れは次の展覧会ポスター)
(2) 訪問日・混雑状況
訪問日:2024/4/7(日) 16:00頃、4/9(火) 15:00頃の2回訪問
鑑賞時間:合計120分くらい(一回目諸事情により40分、二回目は年休で80分)
混雑状況:日曜日も、火曜日も観覧の人は多いですが混雑はしていません。ゆっくり見られました。
(3) どんな展覧会?
池上秀畝(いけがみしゅうほ、1874年-1944年)、長野県伊那郡高遠町(現・伊那市)出身
明治22年(1889)、本格的に絵を学ぶため上京。まだ無名の荒木寛畝(あらきかんぽ)の最初の門人・内弟子となります。師匠から受け継ぐ伝統を守る秀畝たちは「旧派」と呼ばれ、文展・官展でも評価が高く、屏風などの注文も殺到します。
一方、同郷で同じ年、上京の時期も同じころではないかと言われる菱田春草。東京美術学校(現・東京藝大)に入学、岡倉天心の影響を受け、横山大観らと新しい日本画を模索します。日本画の伝統に反した輪郭線のない描き方は「朦朧体」と世間から揶揄されることも。彼らは「新派」と呼ばれます。
今でも展覧会などで目にする機会の多い「新派」。それに対し、今ではあまり目にしなくなった「旧派」。その旧派の中心にいた秀畝。徹底的な写生に基づくその作品。秀畝生誕150年にあらためて見直す展覧会です。
2. 会場へ
(1) 構成
プロローグ 池上秀畝と菱田春草 日本画の旧派と新派
第1章 「国山」から「秀畝」へ
第2章 秀畝の精華-官展出品の代表作を中心に
第3章 秀畝と写生 師・寛畝の教え、"高精細画人"の礎
第4章 秀畝と屏風 画の本文
エピローグ 晩年の秀畝、衰えぬ創作意欲
(2) 気になる作品
まずは「プロローグ」
「旧派」秀畝と「新派」春草の作品比べ
池上秀畝「劉女」大正4年(1915)
中国の仙人「劉女」。ガチョウに乗ってすまし顔
菱田春草「羅浮仙」明治34年頃(1901)
こちらは梅の精「羅婦仙」。衣の白い輪郭線+輪郭線を廃した没線描法。新派「朦朧体」の試み
次は「『国山』から『秀畝』へ」上京の頃の作品
上京前は本名・國三郎から「國山」と名乗っていました。上京後「秀畝」と名乗るようになります。
池上秀畝・画、池上秀花・書「猩々」明治29年(1896)
池上家は高遠町の名家で伊能忠敬の測量隊に宿を貸したこともあったとか。
その三代・休柳、秀花、秀畝は有名で秀畝の祖父、父も絵や歌に精通していました。
「秀畝」は父・秀花、師匠、寛畝から一字ずつもらった号。この作品は書と画を親子で分担した珍しい合作です。
続いては官展で活躍していた頃「秀畝の精華」から
池上秀畝「四季花鳥」大正7年(1918)から右「春」左「夏」
展覧会では「秋」「冬」と四幅が展示されています。同門の荒木十畝の「四季花鳥」に影響を受けた作品とか。十畝の方は今、山種美術館の「花 flower 華 2024」(~5/6)で展示されています。(きっと、その作品だと思います。山種は4/6に見たので確かに影響を受けていると思いました)
池上秀畝「桃に青鸞」昭和3年(1928)
池上秀畝「牡丹に孔雀」制作年不詳
いずれも東京の三田にあった旧大名家、蜂須賀侯爵邸の杉戸絵。現在はオーストラリア大使館所蔵。青鸞が描かれるのはかなり稀なこと。秀畝圧巻の描写力
池上秀畝「翠禽紅珠」昭和4年(1929)
翡翠の鳥・孔雀と紅い珠・ザクロの取り合わせ
孔雀の首の透明感に目を引かれました。
続いては「秀畝と写生」
師の教えを従う画家の礎
池上秀畝「火喰鳥」明治23年(1890)
秀畝には「匣書手扣」(はこがきてびかえ)という大正6年(1917)から昭和19年(1944)までの27年間におよぶ膨大な作品の記録が残されています。時には秀畝が注文を受ける際のカタログともなっていたようです。
そこに記録された作品の一つ
池上秀畝「避邪之図」明治43年(1910)
逃げる邪鬼、睨む鐘馗。コミカルで動きのある一品
「秀畝と屏風」では
池上秀畝「桐に鳳凰図」大正12年(1923)
会場では六曲一双の屏風の前に畳のエリアが設けられ、靴を脱いで座って、いかにも座敷で屏風を味わえるように展示の工夫がなされています。畳に座って見る屏風、ゆっくりした気持ちになります。
最後、エピローグです。
池上秀畝「飛蝶」昭和12年(1937)
目黒雅叙園に飾られていた作品。展示では横に並べられており、蝶が波を打つように飛んでいる姿が優美です。
池上秀畝「神風」昭和18年(1943) 左隻
秀畝最晩年。戦勝を祈念し、元寇を描いた大作。燃えるは金の炎、神の怒り
最晩年でも描こうという意欲は衰えなかったことが見て取れます。
「旧派」と呼ばれ、やがてその作品を目にする機会も少なくなってしまった秀畝。
いずれの作品も圧巻の描写に圧倒されました。また、是非、展覧会で見ることができればと思います。
ということで、展覧会場を後にしました。
チケット販売受付で図録・書籍なども売っています。今回も図録を買いました。
3. さいごに
「僕は新派でも旧派でもない」
明治45年、新派のとある画会の機関誌に寄稿した際の秀畝の言葉です。
「新派でも、旧派でもよい作品がよいのである」
文展の審査員を巡り新派か旧派かの対立が先鋭化した時代。この言葉こそ、秀畝芸術に一貫として流れる精神なのでしょう。そして、この孤高の精神こそ秀畝の芸術を高みへと連れて行ってくれたのではないか、そう思いました。
今、新派の作品を目にすることが多い現代で、あらためて旧派の地に足の着いた凄みのある作品に触れられた貴重な展覧会だったと思います。
そして、「高精細画人」秀畝の神髄に触れるためには是非とも展覧会で生の作品を見て頂ければと思います。
本展の巡回情報は次の通りです。
【巡回情報】
・長野県立美術館 2024/5/25~6/30
関連リンクです。
2024年の展覧会情報はこちら
ということで、今回は以上です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
また、次もよろしくお願いいたします。
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(中村橋駅南の桜。もう、散ったでしょうね・・・)